立川志ら玉の現場主義日記

-志ら玉ブログ- 落語家・立川志ら玉の何も事件が起こらない日々

8月14日(水)のらく里

14時起き。
夜の文楽に備えたっぷり寝られた。

19時、渋谷・PARCO劇場
三谷文楽「其礼成心中」。
イメージ 1
三谷幸喜作・演出の文楽
会場入って初めて再演と知る。
 
曽根崎心中」が流行ったその後、といったストーリー。
三谷幸喜らしい喜劇。

ストーリーがわかりやす過ぎるので初めて文楽見る人に適している、と思われがちだが、私はそうは思わなかった。
逆に文楽本質の特異な様式性が軽視されており(三谷幸喜文楽について詳しくないということだと思うが)、文楽の形式を借りた人形劇になってはいまいか?という懸念はある。
例えるなら、落語を初めて見る人に、分かり易いからという理由だけで漫談の高座を見せるが如く。
それは落語の本質ではない。
勿論漫談形式も広義の「落語」一形態であるが、そのこと解るのは一度でもきちんとした落語を見た人だけ。
三谷文楽にもそれと同じことがいえまいか。
それ故私は、三谷文楽は一度でも文楽見たことある人こそ更に楽しめるし、新作古典両面の良し悪し発見出来ると思った。

前半はストーリーの平易さにかったるかったが、後半は楽しめた。
特に水中の場の工夫は独創的。

演出の疑問点は、主遣いが黒衣姿で顔隠れていること。
通常の文楽と同じく顔出した方が絶対良い。
それは通常の文楽見れば、主遣いが顔出すことが舞台の邪魔になることなどは絶対に無く、それどころか人形と一体になっている主遣いの無意識の表現の素晴らしさに先ず気付くことだろう。

また、台本の問題点について。
太夫の語りが余りにも多過ぎ、「間」がない。
通常の芝居と同じ様な台詞量が常にあり、あれでは浪曲のタンカの様なもので、浄瑠璃としての大時代の魅力は損なわれるのでは、と思った。
芝居では功を奏すテンポの良さが、終始畳み掛けるような慌ただしいものに感じてしまう。
後半は太夫掛け合いになり、大分落ち着いたが。

舞台転換の素早さも通常の芝居ならばいいのだろうが、人形浄瑠璃ののんびりしたテンポではなく、観客側に休む場がない。
二時間の公演だが、情報量ぎちぎちで疲れてしまった。
歌舞伎も文楽も公演は長いが、適当にぼんやり見たり、どうでもいいダレ場あったりと、さほど疲れないものなのだが。

通常では有り得ない文楽のカーテンコールが殊の外良かった。