立川志ら玉の現場主義日記

-志ら玉ブログ- 落語家・立川志ら玉の何も事件が起こらない日々

7月13日(水)の志ら玉

雨。
正午起床。
 
池袋。
シネ・リーブル池袋、15時20分、竹中優介監督「希望と絶望 その涙を誰も知らない」。
2022、TBS。
 
日向坂46ドキュメンタリー映画第二弾。
前作同様TBS制作だが、タイトルからわかる通り「東宝48Gドキュメンタリー」に寄せてきた作品。
そこに「作家」としてのプライドは?、という問題あるが、それでも(それ故?)同監督の前作「3年目のデビュー」よりはマシ。また同監督のSKEドキュメンタリー「アイドル」よりは大分マシ。
映画の持つ「詩」や、ドキュメンタリーの持つ「批評精神」はそこには無い。所詮竹中優介氏は「テレビマン」、という感想。
ただ「東宝48Gドキュメンタリー」に寄せてきただけあり、舞台裏映像素材そのものには力があり、それによって見ていられる。
 
「東京ドーム公演」という「約束の彼の地」(この設定すら「運営」の仕掛けなのだが)で感動のゴールを迎えるという「ドキュメンタリーの『台本』」が事前から見えているつまらなさ。
寧ろ運営側から指示された上でそのゴール地点を設定しているのでは、とすら思ってしまった(それならば「プロパガンダ」であり、「コマーシャル」であり、作家性などは皆無となる。が、それこそが「真の『テレビマン』」か。…という様な裏事情の妄想まで勝手に広がってしまった)。
 
その「東京ドーム公演」には直前のコロナ感染で濱岸ひよりだけ出られず、全員で「約束の彼の地」に立つということは叶わなかった。
実は感動のハッピーエンディングに若干水を差す結果となってしまった。
だが、明らかにその公演がクラスターとなりその数日後にほぼ全員がコロナ陽性となったというある意味「事件」については字幕処理のみではほぼスルー、というのは不満。
 
この作品は極論すれば、先頃卒業した「渡邉美穂の映画」。
その画面に映る渡邉美穂は、正直、ものすごく綺麗な訳でも、ものすごくかわいい訳でもない。
だがそこに映る彼女は、とにかく人間として魅力的。目を引き付ける何かがそこにある。
ドキュメンタリーのカメラが目の前にあるということ周知の上で映し出された「素の彼女」の人間的魅力。
その「素の魅力」の正体とは、果たしてカメラを意識している上で作られたものか、意識していない故でのものか、という「虚実皮膜」。
芝居の達者さには定評ある彼女だが、このスクリーンを通してビンビン伝わる人間的魅力をもってすれば、今後の役者稼業も楽しみでしかない。
「W-KEYAKI FES. 2021」に向けたリハーサル、体育館の様なその場所でふらふらになりぶっ倒れる彼女の映像が凄かった。
リハーサルからこれか、の衝撃。
 
しかし炎天下屋外の「W-KEYAKI FES.」といい「東京ドーム」後のほぼ全員コロナ感染といい明らかに「人災」。
またコンサート演出家や今野氏がメンバーのパフォーマンスに対し、「もっともっと」と過剰な要求を重ねていくシーンを見て、振付師竹中夏海著「アイドル保健体育」で書かれていた内容を思い出す。
アイドルパフォーマンスの「インフレ化」。
演者が肉体的、技術的限界を迎えていると思われる場において、それを知恵で補うのが演出でありプロデュースの本来の仕事であるのに、と。
 
また特に映画前半部は、オーバーワークやメンタル不調から順繰りにメンバーが休養していく時期だったのだが、それを「コロナ」が遠因とでも言いたい様なご都合主義的演出を用い、「メジャーアイドル」という存在そのものが構造的に持つであろう核心の問題から逃げるこの映画の弱腰と批評精神の無さには呆れる。
が、その素材映像を単にそのまま見せてくれたことにおいては意義を感ず。
既に事前に「表」として見せてしまったチアリーディング企画の加藤史帆の「異変」だったが、更にその詳細部分が今作では見られた。
その点では映画前半の主役は彼女が担っていた、とも言える。
個人的には佐々木美玲の休業に到るシーンも胸が痛かった。
その癖一部メンバーの休業についてはごくあっさり字幕だけで処理されていて、その扱いの差に腹も立った。
 
麹町。
QBハウス」で散髪。
 
19時、国立演芸場、師匠独演会勉強に。
19時開演、21時過ぎ終演。
 
22時半帰宅。
1詩半就寝。