晴。
13時半起床。
眠い。
身体が疲れているのがわかる。
本日より消費税増税。
長野の葡萄数種詰め合わせが送られて来る。
早速その中のマスカットを食べる。甘くて美味。
夕方、日暮里。
サニーホール、「日暮里寄席」出演。
前半で「目黒の秋刀魚」。
いつも高座の際に入れている使い捨てコンタクトレンズを持ってくるのを忘れる。
うっかり、ぼんやり。
高座終わりで退出。
池袋。
映画の日。
椅子がふかふかで快適であった。
20時半、三谷幸喜監督「記憶にございません!」。
2019、東宝。
中井貴一主演。
三谷幸喜作テレビドラマ「総理と呼ばないで」の焼直しコメディ。
前作「ギャラクシー街道」の興行的失敗のせいもあるのだろうが、対象レベルをかなり下げて設定しているのでは。
要は「大衆」という名の「バカ」向け、とまで感ず。
ストーリーやギャグレベルのハードルが随分低い。
家でテレビ見ている様な層ならまだしも、金払って映画を見ようという層にはどうなのか。
テレビドラマだった「総理と呼ばないで」の方が、ハイセンスだった気がする。
三谷幸喜の演劇には大枚払って多数見に来るのであるから、そういう層をターゲットにすべき、なのでは。
また当作は、安倍総理招いての事前プロモーションがメディアを賑わしていた。
総理が「お仲間」の電通に引っ張り出された形だろう。
しかし、電通側の言っている「政権批判の意図はない」 ということを真に受けて、 総理が当作を見た上で、 もし本当にそう思っているなら、余程の間抜けである。
「政権批判」の意図はないというのはあくまで「建前」で、どう見ても「安倍批判」・「現政権批判」・「自民党批判」・「政治家批判」に満ちている。
そう思わないほうがどうかしている。
作品ヒットの為にはなりふり構わない三谷幸喜の「死んだふり」と分析するが、結句総理とのツーショットでのプロモーションは「毒まんじゅう」であった。
片や、安倍政権批判を隠さない作品「新聞記者」は、却って口コミで評判広がり、今や異例のロングラン中である(「映画的」にはそれ程良い出来とは思わなかったが)。
これも「わざわざ金を払って映画を見る層」を見誤った三谷幸喜の計算違い、となるかどうか。
映画内では出演者が皆「ガラケー」を使用しているのだが、これも「現在」の話ではない、「現政権」の話ではない、という「言い逃れ」の一手。
要は、「仮名手本忠臣蔵」とはあくまで「江戸時代」の話ではなく、「南北朝時代」を舞台とした「フィクション」である、とすることで「お上」への言い逃れとしたことと同一。
しかしこの時代にそこまで「お上」の目を気にするか、とまで思うが、東宝で映画を撮るということは、それらの種々「忖度」をも含むことなのだろう。
しかし、「映画として大して面白くない」、というのが一番の敗因也。
エンドロールで男女蔵丈の名前を見るが、どこに出ていたのかまるでわからなかった(後に調べ、フィリピンパブ通いの不祥事を謝罪する大臣役と知る)。
4時就寝。